森保一(もりやす はじめ)監督は、2022年3月24日オーストラリアをアウェーでうち破り、サッカー日本代表を念願のカタールW杯(ワールドカップ)出場に導きました。
2018年7月26日、ロシアW杯が終了すると日本代表西野朗監督を引き継ぎ、日本代表コーチから監督に就任しました。
日本代表として世界で戦うための監督に就任して4年、大きな喜びを得ることができました。
そこで気になったので、森保一監督について調べてみました。
試合後すぐのコメントを掲載しました。
出会いやコミュ力、年俸や経歴や出身校、奥さん&ご両親などについて、皆さんも一緒に確認していきましょう。
W杯出場を決めた試合後すぐのコメント
AFCアジア予選オーストラリア 0-2 日本で勝ち、7大会連続W杯出場決定した直後の森保一監督の試合後インタビューの動画はこちら(YouTube)
2022年3月24日(木)午後8時頃、オーストラリアのシドニーのアコースタジアムで行われた、オーストラリアvs日本の試合が行われた後の森保一監督のコメントは以下です。
最後にすごい展開が待っていました。まずは監督の言葉で、日本のファンに報告をお願いしてもいいですか、、、というインタビュアーの声に応えて
森保一監督は、、、
いやーホント、苦しい戦いばかりでしたけど、、、
政府関係者の皆さん、地方行政の皆さん、エッセンシャルワーカーの皆さん、そしてこのコロナの中でもいろんな人が我々にサッカーできる環境をつくってくれて、まずは感謝申し上げたいと思います。
そしてサポーターの皆さん、国民の皆さんと共に、そして我々今日ここに来たチーム皆んなで一丸となって戦いましたが、これまで繋げてくれた選手たち、スタッフたちが一杯いて、我々がこの場に立って勝利することができました。
我々日本代表を支えてくれた全ての方々と全てのサッカーファミリーと、このワールドカップ出場という勝利をつかみ取れたと思います。
一緒に喜びたいと思います。
みなさん本当に応援、支援、ありがとうございました。
出典:DAZN
コロナ禍で外国で試合をすることは、関係する皆さんにとって本当に大変であったと思います。
そのような苦労が付いて回る中で、アウェーの日本代表はよく我慢して試合に臨みました。
それ故に勝って、関係者の苦労に報いたかったはずです。
ホッとして胸をなでおろしていることと思います。
中学の時には、お父さんが息子の森保一少年のためにサッカー部を創ることに尽力してくれています。
さらに森保一監督は、日本サッカーリーグから始まって、プロ化、Jリーグ発足、Jリーグ優勝、ドーハの悲劇、ベルギーに逆転負けなどなど語り尽くせないほどの経験をしてきました。
これまで繋げてくれた選手たち、スタッフたちがいたからこそ勝利できたと話しています。
森保一監督は、日本サッカーの歴史と家族やこれまで出会ってきた人たちの思いを全て背負う覚悟で試合に臨んでいるように見えます。
一夜明けた3月25日、次のように語りました。
「勝った負けたの課題を整理して、ワールドカップで世界の強豪を超えていく。ベスト8以上の成績を収めたい。」
日本代表の前に立ちはだかるベスト16の壁を乗り越えていくことを表明しました。
「苦しい戦いばかりでしたけど…」7大会連続W杯出場決定!森保一監督、試合後インタビュー|オーストラリア 0-2 日本|AFCアジア予選
出典:YouTube
森保一監督のコミュ力は?
森保一監督が、現役選手時代に最も大切にしていたのは、シンキングスピードです。
頭を使って試合の流れを読んで、次に何をしたら良いのかを即座に判断することが最も大切だと考えていました。
そうすることで、ボランチとして大切な仕事である空いているスペースを埋めることや味方がプレーしやすいように早く正確なパスを出すことができたのです。
次に何をしたら良いのかを即座に判断する能力は、試合中の監督としても大切な資質です。
2022年3月24日のオーストラリア戦では、選手交代がピタリとはまり、勝利を収め、W杯への切符を手に入れました。
流れを読んで判断する能力が大きく生かされた結果だと思います。
送り出す選手が力を発揮できるような心理状態をつくることにも神経を使っています。
送り出すときもそうですが、常日頃からどんなタイミングでも話しかけるようにしているそうです。
自分を押し付けるのではなく、意見を聞いて自分の意見と擦り合わせてポジティブになるように話を終わらせるのだそうです。
出会いやご縁を大切にしている森保一監督らしさが現れています。
私も若い頃にやる気を引き出してくれる上司に出会ったことがあります。
やる気になれば良い結果を残せます。
ただ、私の場合はすぐに天狗になってしまいましたが、そんなときも諭すように接してくれて考えを改めることができました。
特にスポーツは気持ちによって大きく結果を左右しますので、森保一監督にはどんどん選手を活躍させてほしいものです。
森保一監督のコミュニケーション能力の高さは、ファンやサポーターの心をもつかんできました。
サンフレッチェ広島の監督時代に、優勝した時にファンやサポーターに向かって「おめでとうございます」と話し始めたのです。
自分も嬉しいが、ファンやサポーターも嬉しい。
特に頑張って応援してきた自分のチームが優勝したわけですから、「おめでとう」と言ってほしいはずです。
そんな思いを汲み取って、相手を思い遣る森保一監督、素晴らしいですね。
ファンやサポーターのことを思い遣ってくれる森保一監督やチームのことが好きになり、これでまた応援頑張ろうという気持ちになるものです。
W杯出場が決まり、これからはW杯でどのように戦うかがポイントとなりました。
2022年11月21日に開幕するカタールW杯では、ロシアW杯ですり抜けていったベスト8を目指します。
もちろん戦うのは選手ですから、森保一監督には選手が力を発揮できようにあらゆる手段を使ってもらいたいものです。
私はたまたま元日本代表監督でグループリーグを通過しベスト16進出を果たした岡田武史監督が、心身を律することや選手をコントロールせずに燃える集団を作る方法やその他様々な勉強をされていたのを知っています。
W杯には、世界でも最も身体能力の高い選手たちが集います。
その中で勝ち上がるには、まずは身体能力で負けないことが大切です。
その上で海外の一流選手に勝ち切るためには、頭脳と技術を最大限発揮することが必要です。
第一戦から勝ちにいかなければなりません。
アジア最終予選のように、出だしでつまずいてしまえば取り返しがつかないことになりかねません。
選手の能力を最大限に引き出して、最高の舞台で最高のパフォーマンスを見せてくれるようにすることが、高いコミュ力を持つ、森保一監督にはできるはずです。
【森保監督が選手とのコミュニケーションをとるときに気を配る3つのポイント】
1つ目は、いつでもどこでも話しかけること。選手の心に響くベストなタイミングを逃さないことが大切だと考えているのです。
2つ目は、相手の考えを聞く“質問”から入るようにすること。自分の考えを一方的に伝えるのではなく、選手の考えを聞いたうえで自分の考えをすり合わせます。
3つ目は、会話の最後を笑顔で終えることです。森保監督は、選手にはポジティブなエネルギーを次につなげてほしいと思っています。選手が落ち込んだ状態で明日につながることのないよう、会話の最後の笑顔を意識しているのです。
引用:NHK
【W杯組み合わせが決定】サッカー日本代表森保一監督 インタビュー「格下はいない」
出典:YouTube
森保一監督の奥さんは?
森保一監督は、1990年22歳になる年に、高校の同級生の由美子さんと結婚されています。
森保一監督は、サッカーに集中しだすと周りのことが目に入らなくなるようなタイプですし、仕事以外は何もしていないような方だそうですので、内助の功は大変なものだと思います。
全てをこなしてこられた方なのだと思います。
さらに息子さんが3人いらっしゃるとのことですので、その大変さは想像以上です。
ちなみに森保家のご長男さんは、森保翔平さん1991年8月17日生まれ(30歳) です。
カマタマーレ讃岐やニュージランドのオネハンガ スポーツやワイタケレ ユナイテッド、バヌアツのマランパ リバイバースFCに所属したプロサッカー選手です。
現在は、KONAMIの公式YouTubeチャンネルが運営するサッカークラブ「Winners」の一員のようです。
次男さんは、森保圭悟さん1993年9月22日生まれ(28歳)です。
サンフレッチェ広島ユース出身で、流通経済大学へ進学されています。
卒業後は、オーストラリアに渡り、エッジワースFCで活躍した。
続いてフィリピンのJPVマリキナFCに、さらにドイツのTuSロット=ヴァイス コブレンツに加入したが2019年に引退した。
三男さんは、森保陸さん2000年7月27日(21歳)です。
サンフレッチェ広島の育成組織出身で、立教大学に進学、関東大学リーグで活躍中のようです。
サッカー一筋のご主人と3人のサッカー少年たちを育て上げた奥さんの苦労はどれほどだったでしょうか、、、
我が家は一男一女ですが、一日が終わる頃には奥さんはほとんど倒れそうになっています。
森保一監督のご両親 お父さんは? お母さんは?
森保一監督のお父さんは、洋記さんです。
造船関係の仕事をされていた方のようです。
森保一少年は、小学校でサッカーを始めたが、入学した深堀中学にはサッカー部はありませんでした。
隣町にある土井首中に一時間をかけて歩いて練習に通っていたが、一年の時妬みから嫌がらせに遭い、通うのを止めてしまいました。
そんな息子を見たお父さんは、通っていた深堀中学にサッカー部を創ることに尽力しました。
何度も何度も校長と教頭に直談判を繰り返し、創部にたどり着きました。
条件は、ハンドボール部が強豪だったためにグラウンドの使用はできないというものでした。
そういう時代だったんですね。
中学卒業後は、サッカー強豪校である長崎県立国見高等学校に進学を希望していましたが、お父さんの反対で、特待生として入学できる長崎日本大学高等学校へ入学することになります。
卒業後にマツダに入社できたのは、この高校に入学していなかったら実現しなかったかもしれません。
この高校の監督とマツダの今西和男総監督にはコネクションがあったからです。
お母さんは、万知子さんです。
子供の頃は朝から夜までパートで働きづめだったそうです。
それから家事をして睡眠時間は2〜3時間だったそうです。
森保一少年は、助けてあげたいと、新聞配達を始めたほどです。
自分を信じてくれて注がれた無償の愛情を、今でも忘れないと仰っています。
監督になってからも愚痴を聞いてくれていたそうです。
負けず嫌いな性格は、母親譲りのようです。
私には、そんなお母さんを喜ばせようと日本代表監督の仕事を全うしようとしているように見えます。
森保一監督には、二人のご妹弟がいらっしゃいます。
妹の真澄美さん(一つ年下)、弟の洋さん(三つ年下)です。
弟の洋さんは、元プロサッカー選手で、V・ファーレン長崎アカデミーダイレクター兼U-18監督をされています。
このお二人も森保一監督の力になっているようです。
出会い
長崎日本大学高校の監督とマツダの今西和男総監督にはコネクションがあったことから入団することになります。
マツダに入団すると、ハンス オフト監督がその年就任します。
この出会いがあったことで、のちにハンス オフトが日本代表監督に就任すると日本代表に招集されることになります。
高校時代は、山梨国体選抜に選出されるが、長崎日本大学高校は、国見や島原商業の陰に隠れていたため無名の選手でした。
マツダに入団当初も無名の上、評価が低かったため、サテライトでプレーしていたが、ハンス オフト監督に見出され、トップチームのマツダでプレーすることになりました。
ハンス オフト監督との出会いが大きく人生を動かします。
もちろん実力もあり、上を目指す精神があり、人柄も良いということはありますが、待ち受けていた出会いに導かれて現在があるようにも見えます。
マツダとの出会いは、サンフレッチェ広島になっても続きます。
1994年にはステージ優勝、1999年にはJリーグ通算200試合出場を果たします。
2004年現役選手を引退するとすぐにサンフレッチェ広島のコーチに就任し、2012年には監督に就任4年間で3度の優勝を果たします。
カップ戦の優勝には縁なく、2013年にルヴァンカップと天皇杯で準優勝と勝ち切れていません。
アジアチャンピオンズリーグ(ACL)では3勝6分け5敗と負け越している。
2017年にサンフレッチェ広島の監督を辞任すると、次は東京五輪日本代表監督の座が待っていました。
手腕を買われて金メダルを目指すことになります。
残念ながら東京五輪は4位という結果でした。
2018年には日本代表の監督に就任、サンフレッチェ広島時代に負け越しているアジアで雪辱を目指し、カタールW杯出場を目指します。
2019年のAFCアジアカップでも勝ち切れず2位に終わる。
2022年3月24日ドーハの悲劇から29年、悲願のカタールW杯出場を決めました。
出会いとご縁に導かれてきた森保一監督は今後も出会いとご縁を生かしていくことでしょう。
それが勝負どころで勝ちきれるような、多くの日本代表のサッカーファンを喜ばせてくれるものであることを祈ります。
【対談】森保一さん(第2回)│「オフト」という存在
出典:YouTube
森保一監督の経歴
- 1987年 マツダ(サンフレッチェ広島の前身 当時監督はハンス オフト)入団 当初のマツダSC東洋(サテライトチーム)からマツダへ
- 1991年 マツダとプロ選手として契約(22歳) JSL(日本サッカーリーグ)一部昇格
- 1992年 日本代表に初招集(ハンス オフト日本代表監督)
- 1993年 サンフレッチェ広島の選手としてJリーグ開幕
- 1993年 ドーハの悲劇を経験(W杯アメリカ大会アジア予選)
- 1994年 サンフレッチェ広島でステージ優勝(サントリーシリーズ)
- 1998年 京都パープルサンガにレンタル移籍
- 1999年 サンフレッチェ広島に復帰 Jリーグ通算200試合出場
- 2002年 ベガルタ仙台に移籍
- 2004年 1月現役選手引退(35歳)
- 2004年 サンフレッチェ広島強化部のコーチに就任 JFA公認S級コーチライセンス取得
- 2005年 U-19サッカー日本代表コーチ就任(監督は吉田靖)
- 2006年 AFCユース選手権2006でU-19日本代表コーチとして準優勝
- 2007年 FIFA U-20ワールドカップにコーチとして参加
- 2007年 サンフレッチェ広島のコーチに就任(監督はミハイロ ペトロヴィッチ)
- 2010年 アルビレックス新潟ヘッドコーチに就任(監督は黒崎久志)
- 2012年 サンフレッチェ広島の監督に就任(43歳)
- 2012年 サンフレッチェ広島の監督としてJ1年間優勝
- 2013年 サンフレッチェ広島の監督としてJ1年間優勝(2連覇)
- 2014年 J1で8位(3連覇はならず)
- 2015年 サンフレッチェ広島の監督としてJ1年間優勝(3回目)
- 2017年 7月4日 成績不振を理由にサンフレッチェ広島の監督を辞任
- 2017年 10月12日 2020年予定の東京オリンピックを目指す東京五輪日本代表監督に就任(49歳)
- 2018年 4月ロシアW杯にむけて日本代表のコーチに就任(監督は西野朗 東京五輪日本代表監督を兼任) ベスト8をかけたベルギー戦悪夢の歴史的逆転負けを経験
- 2018年 7月26日 日本代表監督就任(東京五輪日本代表監督を兼任 49歳)
- 2019年 AFCアジアカップ2位(優勝はカタール)
- 2021年 東京五輪では監督としてメダルに一歩届かず4位
- 2022年 3月24日カタールW杯出場決定
サッカー日本代表 森保監督の現役時代のゴールTOP10!:TOP10 GOALS
出典:YouTube
森保一監督の収入は?
森保一監督の年俸(推定)は以下です。
選手時代
- 2002年 1,300万円
- 2003年 1,500万円
- 2004年 引退(35歳)
選手としては1987年から2004年まで17年間活躍されましたが、調べられたのはのは2002年と2003年だけでした。
サンフレチェ広島監督
- 2012年 3,000万円
- 2013年 3,600万円
- 2014年 5,000万円
- 2015年 5,000万円
- 2016年 6,000万円
- 2017年 7,000万円
- 合計 2億9,600万円
五輪代表監督として
- 2018年 4,800万円
- 2019年 4,800万円
- 2020年 4,800万円
- 2021年 4,800万円
- 合計 1億9,200万円
日本代表監督として
- 2019年 1億5,000万円
- 2020年 1億5,000万円
- 2021年 1億5,000万円
- 2022年 1億5,000万円
- 合計 6億円
監督として
- 合計 10億8,800万円
過去の日本代表監督の年俸は、ザッケローニ監督は2億8,000万円、アギーレ監督は2億円、ハリルホジッチ監督は2億6,000万円、西野朗監督は1億2,000万円とのことでした。
世界では、ドイツ代表のヨアヒム レーブ監督が4億9000万円(ロシアW杯時)、2位ブラジル代表のチッチ監督とフランス代表のディディエ デシャン監督で約4億4600万円(ロシアW杯時)とのことでした。
ちなみに横浜F・マリノス(2021年まで 現在セルティックFC監督)のアンジェ ポステコグルーの年俸はJリーグ最高額2億円でした。
さらにサッカー監督の最高給とりはアトレティコ マドリーのディエゴ シメオネ監督で、年俸は4300万ユーロ(約56億円)とのことでした。
ここまでいくととても比較にはなりませんね。
これくらい差があるということですので、真摯に受け止めなければなりませんね。
ただ日本のサッカーの将来を考えると同じ土俵に立つことを考えていかなければなりません。
2050年にはW杯優勝を目指しているのですから、勝つための投資は必要なはずです。
優勝すれば、日本代表もJリーグも価値がどんと上がるわけですから、人気も収益もどんと上がります。
出典:JFA
森保一監督のプロフィール
- 名前: 森保一(もりやす はじめ)
- 愛称: ポイチ(森が苗字で、保一が名前として読まれるため)
- 生年月日: 1968年8月23日(53歳)
- 血液型: A 型
- 出身地: 長崎県長崎市出身(小学1年から) 静岡県掛川市で生まれ、名古屋市、横須賀市、唐津市から長崎市へ
- 出身校: 長崎日本大学高等学校 長崎市立深堀中学校 長崎市立深堀小学校 唐津市立鏡山小学校(小学1年時に転出)
- 身長: 174cm
- 体重: 68kg
お父さんの仕事の関係で、小学校1年に長崎で定住するまでに転居を繰り返し、長崎は5箇所目となっています。
その後は、長崎日本大学高校を卒業するまで長崎市に住んでいます。
森保一監督が、小学校3年頃から授業が始まる前に校庭でサッカーをして遊んでいたサッカー少年だったそうです。
もともと走り回るのが好きな少年だったことから、小学校5年の時に新しく赴任してきた先生に声をかけられ、サッカーを教えてもらうようになって楽しくなっていったようです。
相手と駆け引きしたり、自由な発想でプレーすることでエネルギー発散をしていたようです。
私も小学校の頃、校庭を走り回るのは大好きでした。
野球の真似ごとをしたり、ドッヂボールでよく遊びました。
みんなでワイワイしながら本当に楽しかったですね。
幸か不幸かサッカーを教えてくれる先生には出会いませんでしたが、出会いによって導かれたことで現在の自分があるのは間違いありません。
森保一監督にとっては、小学5年生で人生を決定づける出会いがありました。
その後40年以上サッカー 一筋で活躍することになります。
出典:JFA
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